35年前の本だが非常に素晴らしい内容でした。
些細な事柄への対処の仕方が全人格を現わす
突発的な事柄でその人の真価が露見することもありますが、それ以外の日常的な事柄に対する対処の仕方で十分その人の本質が見えるのだと筆者の鈴木健二は述べます。
そう言われてみれば確かにそうだなと。
仕事も日常も人生も一場面一場面切り取って見てみれば、取るに足らないような些細な事象の連続である。些細で小さな事象が圧倒的に多いのです。
ドラマに出てくるような大事件なんか滅多に起こり得ません。
ドラマに出てくるような大事件でこそ人は真価を発揮されるのなら、それ以外の時は眠っているのか?それ以外の人生は仮の姿か?という話です。
この本で盲点を突かれました。
まさに人生の核心に触れる内容でした。
「人の真価は突発時にこそ発揮される」と先入観で思い込んでいたが、実際は何気ない日々の些細な事柄の中でこそ発揮されています。
仕事なんか特にそうで、例え大きな事業でも、その本質の大部分が「誰もが詰まらないと思う作業の繰り返し」です。
しかし、筆者はそんな些細な事柄への対処の仕方にこそ人間性が現れ、その積み重ねが人格を現わすのだと述べます。
そう。まさに言ってみれば小さな、一つ一つでは取るに足らないと思うような、些細な事象の積み重ねこそ人生です。
積み重なって人生という大きな括りになっているだけで、一つだけを見てみればとても小さい。
しかし、そのとても小さなことがその人の人格、人生を作り上げるのです。
気配りは技術
些細な事柄への対処の仕方で重要なのが気配りであると著者は述べます。オレは社会に出てびっくらこいた事があります。
正直「そんなことまでしてやるなんて、逆に相手を舐めてるんじゃないか?」と思うようなことまで、出来る大人は相手に気を配り、丁寧に接するのです。
「そこまでせんでええやろう」なんて気持ちは、自分の独善であり怠慢です。人に向けて行う善意に「ここまでで良い」なんて境界線はないんです。
各々が自分の責任で自分の役割を全うし、その上で足りないことがあれば「手助けをしてやる。」
そんな無骨な配慮が気配り、心配りだと学生時代は思っていました。しかし、それは「ただの補助」に過ぎず、気配りではないことを知りました。
本当の気配りとは、相手に対する敬意や尊敬、愛着などを以てするもので、優しい気持ち、親切心などはただ持っていても、積極的に相手に示さなければ意味がないということを自分は知りませんでした。
そして、本書では気配りは技術であり、訓練しなければ優しい気持ちを例え持っていても使えないので意味がないということを教えてくれます。
非常に素晴らしい本なので、機会があれば読んでみることをオススメします。
こないだジムの帰り道に子供が車とぶつかった
こないだジムの帰り道、自転車に乗った子供が車とぶつかった。
すぐに駆け寄って「大丈夫?」と声をかけたところ子供は「大丈夫です」と答えた。
運転手もすぐに降りてきて「ほんとにどこも打ってないのか?!大丈夫かー?!」なんて確認してたし、別に轢かれたわけじゃなく、単にゆっくりぶつかっただけだったから、どこも打ってないことを確認したらオレは安心してその場を過ぎ去ってしまいました。
「あれで果たして本当に良かったのだろうか。」
なんてことを思い出します。
今日もジムでエアロバイクを漕ごうと思ったら、何故か電源が入らずオロオロしてると初老のオッサンが「軽く漕いでから押すとスイッチが入りやすいよ」なんて声をかけてくれました。
意外と社会は気配りと言う名の善意で溢れています。
「その善意に報いることが出来ているのか?」
「受けた善意を人に返すことが出来ているのだろうか?」
常々そんなことを考えています。